「推し」の話
「推し」
それは好きとか、カッコいいとか可愛いとか、そんな言葉では言い表すことができない、
とにかく「今」時点において、生きていくうえで必要不可欠な、そんな存在だと思う。
(超個人的推し論です。)
私は小学生の頃から、絶えず誰かを推し続けてきた人生でした。
小学生~中学1年生・・・ハロプロとジャニーズ、その他イケメンアイドルを行ったり来たり。
雑誌の切り抜きと生写真集めに精を出す。
中学2年~高校生・・・邦楽ロック推し。本当は嵐が好きなのに、なんとなく恥ずかしくなったお年頃。
結果、周りが聞いていないバンドを応援したい!(マイナーバンドを聞く私すごい!)という、
いわゆる中2病をこじらせてしまいました。お恥ずかしい。
大学生~社会人4年目・・・嵐推し最盛期。稼いだバイト代で遠征をし、お布施もたくさんしました。
(グッズへの課金のことです。)
そして夜な夜な友人と「嵐会」を開催し、コンサートDVDを鑑賞しては、暗闇でペンライトを振り回し、
同じ時代に生まれてよかった…などと言い合い、号泣するのがお約束。
こんな風に、これからも、定期的に新曲が出て、毎年コンサートツアーがあって…
そんな日々が繰り返されるものだと思っていた頃発表された、グループの活動休止。
そして続いた結婚報道。
アイドルも一人の人間なんだから、いつかはこんな日が来るとは思っていた。
思ってはいたけど、やっぱりショックでした。
こういう時になると毎回「推しと結婚できるとでも?」とか、
「喜んであげるのが真のファン」などと言われますが、
私的にこれはかなり的外れで残酷な励ましでしかありません。
別に推しと結婚したかったとか、そういう話ではないのです。じゃあ何が辛いのか。
それは、推しに「家庭」の存在を意識してしまうこと、そして本来なら喜ぶべきことなのに、
100%喜べない自分への罪悪感が存在するからです。
必ずしも「結婚」というイベントが、すぐに推しを変化させることありません。
だけど推しはこれから夫になり、もしかすると父になるかもしれません(ていうかなった)。
そうなったとき、推しは「アイドルでいること」よりも、きっと「家庭」が大事になるのではないか。
つまり、私にとって推しの結婚は、ファンから見えないところで緩やかに、
でも確実に推しが変化していくという「宣言」のようなものなのです。
そしてそれは、私が絶対に関与できない「結婚」という大きな壁の向こう側で起こることなのです。
あと、もうひとつ。推しを神格化しすぎたあまり、
結婚したことで推しが急に「人間」になることにも混乱しました。
どういうことかというと、今までステージでアイドルとして輝く姿に何度も救われてきた私にとって、
推しは一種の「信仰」のようなものになってしまったわけです。
信仰の対象だったものから、突然、結婚します。なんて言われても、
あぁ…そっか。推しも人間だったね…帰ったら奥様の手料理が待ってたりするんだね…。
などと、どうしようもない想像を膨らませ、
推しの「人間としての暮らし」をまざまざと痛感するわけです。(もう一度いいますが、勝手な想像です)
推しの結婚から2年。いまだにあの時の感情を言葉にすることは難しく、
これは一生分からないままになりそうです。
それでも多分、いや、絶対、活動再開したときにはまた、
心を乱されながらも推しを応援し続けるのだと思います。
おわり。